スーパー「かわとよ」
きたろうさんは、深川でスーパーマーケットを経営していました。
きたろうさんの父(私のひいじいさん)が八百屋を営んでおり、
その八百屋をスーパーマーケットにしました。
スーパー「かわとよ」では、きたろうさんの親族が多く働いていました。
私も中学生や高校生の頃、レジ打ちや、野菜や果物の仕分けなど、
バイトさせてもらっていました。
「かわとよ」は、とても繁盛していて、毎日多くのお客さんで賑わっていました。
常連のお客さんが多いため、レジ打ちしていると、近所のおばちゃんが私をみて、
よく声をかけてくれました。
お客さんと従業員が気軽に話をするアットホームなスーパーマーケットでしたが、
きたろうさんは、ちょっと特別でした。
きたろうさんは、脳卒中で何度か倒れ、言葉が不明瞭だったのです。
祖母や、母などは、きたろうさんと会話できるのですが、
私はきたろうさんが何をしゃべっているのか、ほとんど理解することができませんでした。
特に、きたろうさんが感情的になると、ただ唸っているようにしか聞こえませんでした。
そんなきたろうさんですが、特定のお客さんとは仲良くしていました。
あるとき、きたろうさんと仲良くしているお客さんが、美味しいお菓子はないかと尋ねました。
きたろうさんは、そのお客さんに、自分がよく食べているものをすすめ、
お客さんはそれを買って帰りました。
次の日、
きたろうさんにすすめられたものを買ったお客さんが怒鳴り込んできました。
どうしたのかと尋ねると、
きたろうさんにすすめられて買ったものは、なんと
ドックフードでした。
きたろう「カリカリして、うまいんだけどな…」
以上、母から聞いたお話でした。
おしまい。
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以下、後日談。
ドックフードを買わされてしまったお客さんときたろうさんは
このことがあったあとも仲よくしていました。
そのお客さんは、右翼の方だったそうで、
きたろうさんのお葬式に、街宣車でやってきて、
分厚い香典を置いていったそうです。
きたろうさんは、様々な人に分け隔てなく接し、好かれていました。
お葬式では、取引先の方よりも、お客さんの方が多く訪れていました。
その中には外国人の方もいて、生前、とてもお世話になったとお手紙ももらいました。
ヒロおじさんの話
ヒロおじさんは、母方の祖母の弟です。
ですので、私の叔父ではなく、母の叔父にあたりますが、
「ヒロおじさん」と呼んでいました。
ヒロおじさんや、祖母の家族は、所沢の山の方に住んでいました。
そこでは当時、かなり有名な一家で、大きな土地や家を持っていました。
ヒロおじさんも戦争にいきました。
シベリアです。
戦時中、長い間、ヒロおじさんから連絡はなく、家族は心配していました。
なかば、あきらめてもいました。
そんなある日、祖母が庭の方に目をやると、
遠くにある一本の大きな木の下に、
軍服を着た男性が立っていました。
その男性は、ただじっと、目の前の大きな木を見上げています。
祖母は、その男性に近づきました。
そして、その男性は、ヒロおじさんでした。
帰国後、ヒロおじさんは結婚し、自宅に大きなダンスホールを作り、
夫婦でホールダンスの先生をしていました。
私も子供の頃に、何度か遊びに行って、大きなダンスホールで踊りました。
おしまい。
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以下、私の感想です。
帰国したヒロおじさんは、なぜ自分の家へすぐに向かわず、木をじっと見上げていたのでしょうか。
この話をしてくれた叔母は、きっとヒロおじさんはその木を見つめることで、故郷に帰ってきたということを実感していたのだろうと言っていました。
私は、ヒロおじさんが、戦争に行く前に比べ、
大きくなった木を見て、戦争で奪われた長い時間を感じていたのかもしれないと
思いました。
おじいちゃんの話
はじめまして、こんにちは。
ヒロです。
私の母方のおじいちゃんのお話を書きます。
母や、叔母から聞いたおじいちゃんの戦争の話です。
❊戦争を肯定するものでは決してありません。
❊断定的な言い回しを用いていますが、すべて伝聞です。
(戦争がなければ、おじいちゃんはもっと幸せな暮らしができていたと思います。)
おじいちゃん=きたろう
きたろうさんは、戦争で中国に行きました。
雪の降る寒い地方でした。
移動には、手作りのスキーを用いていました。
きたろうさんのスキーはよくできていて、表彰されました。
ある日、きたろうさんのスキーを上官が黙って使いました。
そのことで、きたろうさんは上官にくってかかり、ケンカになりました。
きたろうさんは、第一歩兵分隊の軍曹でした。
その分隊は、中国をでて、船でフィリピンに向かうこととなりました。
しかし、上官とのケンカが原因で、きたろうさんはフィリピン行の船に乗せてもらうことができませんでした。
きたろうさんは、そのまま中国に残り、捕虜となります。
捕虜といっても、シベリアにおける捕虜とは比較すると、恵まれた生活を送っていました。
山を越えた村で食べた肉まんや月餅がとても美味しかったそうです。
戦争が終わり、きたろうさんは無事に帰国することができました。
そして、祖母と結婚し、私の母が生まれました。
日本に帰ってきたあとも、月餅が大好きでよく食べていました。
おしまい。
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以下、私の感想です。
もし、きたろうさんが、
とても良いスキーを作ることもなく、
表彰されることもなく、
上官とケンカすることなく、
フィリピンに向かっていたら、
祖母と結婚することもなく、
母が生まれることもなく、
私も生まれることはできなかったと思います。
フィリピンでは戦争で、とても多くの方が亡くなったとききます。
きたろうさんも、そのひとりとなっていたかもしれません。
きたろうさんは、帰国後、亡くなられた戦友の方々を偲ぶため、
数年に一度はフィリピンを訪れていました。
最後に、戦争で亡くなられた多くの方々のご冥福を祈るとともに、
おそらく天国で月餅をほおばっているきたろうさんを想います。